2011年3月14日(月)子供たちは自宅待機としました。放射線測定器を持っていればと悔やんでも仕方がありません。正確な情報が政府からもマスコミからも出てこない以上、安全側をみて避難の判断をするしかありません。午前11時ごろ3号機で激しい爆発が発生した模様が映像で映し出されました。福島第一原発全体が制御不能となっていることは明らかでした。福島原発から250kmの距離は、チェルノブイリの事例からいってもまったくもって安全とは言えない、むしろ危険なエリアに含まれていると考えていました。枝野官房長官の会見からは、何かを隠しているという生易しいレベルではなく、危機的なことが進行しているがそれすら把握できていないという恐怖感のようなものが伝わってきました。制御不能となった6基の原子炉と燃料プールが次々に暴走すれば、日本全体が死の灰に覆われることになります。これは、いよいよ子供たちを避難させなくてはいけない時がきたと判断し、午後9時過ぎに最小限の荷物を積み、車で家族5人、1000km先の九州を目指し出発しました。高速道路はまったく渋滞せず、しかしガソリンを入れるための長蛇の列が異様な風景を作り出していました。もう一度東京に戻れるのだろうか、悲しい気持ちに包まれながらも、とにかく西に向かうために、仮眠もとらずに運転を続けました。