2011年3月15日(火)を振り返る

3月14日の夜9時頃に避難の決断をし、10時には出発しました。後にこの決断が子供たちの被曝を最小化させる意味で重大な決断であったと確認することとなります。

東京都産業労働局データ(採取地:東京都世田谷区深沢)
3月15日 0:00〜24:00(24時間合計)
ヨウ素(131+132)  1,016(Bq/㎥)
セシウム(134+137)  232(Bq/㎥)
ヨウ素+セシウム   1,248(Bq/㎥)

3月13日AM8:00から測定を開始し、3月15日のAM0:00以前はヨウ素セシウムの検出は0であったとのことです。
3月15日の24時間平均は1時間当たり52Bq/㎥、成人の呼吸率は1時間当たり1㎥と考えると、24時間で1248Bqを呼吸したことになります。これをシーベルト換算すると0.22mSvとなり、24時間で、1年間の被曝限度1mSvの22%の被曝を呼吸だけでしたことになります。これはあくまでも概算値ですが、3月15日にどこで、何をしていたかによって被曝量は大きく異なります。
私は3月14日の午後10時に東京を出発しましたので、ちょうど放射性核種を含んだ風から逃げるように西に向かったことになります。神戸あたりで、東京でも放射線量が急上昇しているというニュースを目にしました。午後5時ごろ目的地の大分県中津市に到着、すぐに駅前の不動産屋さんで、ワンルームマンションの賃貸契約をして、家族5人の避難生活が始まりました。

東京都産業労働局放射性核種測定データ

2011年3月14日(月)子供たちは自宅待機としました。放射線測定器を持っていればと悔やんでも仕方がありません。正確な情報が政府からもマスコミからも出てこない以上、安全側をみて避難の判断をするしかありません。午前11時ごろ3号機で激しい爆発が発生した模様が映像で映し出されました。福島第一原発全体が制御不能となっていることは明らかでした。福島原発から250kmの距離は、チェルノブイリの事例からいってもまったくもって安全とは言えない、むしろ危険なエリアに含まれていると考えていました。枝野官房長官の会見からは、何かを隠しているという生易しいレベルではなく、危機的なことが進行しているがそれすら把握できていないという恐怖感のようなものが伝わってきました。制御不能となった6基の原子炉と燃料プールが次々に暴走すれば、日本全体が死の灰に覆われることになります。これは、いよいよ子供たちを避難させなくてはいけない時がきたと判断し、午後9時過ぎに最小限の荷物を積み、車で家族5人、1000km先の九州を目指し出発しました。高速道路はまったく渋滞せず、しかしガソリンを入れるための長蛇の列が異様な風景を作り出していました。もう一度東京に戻れるのだろうか、悲しい気持ちに包まれながらも、とにかく西に向かうために、仮眠もとらずに運転を続けました。

2011年3月13日(日)を振り返る

3月13日(日)、私は現在進行形の原発事故による最悪のシナリオを想定していました。
→①原発周辺の放射性物質濃度が上がり、作業員が近付けなくなる

→②冷却が不可能となり、1〜3号機の原子炉、1〜5号機使用済み燃料保管プールにおいて、次々にメルトダウンそして水蒸気爆発をおこす

→③北は北海道から、南は関西まで、大量の放射性物質が拡散し、国民の2/3が深刻な被曝

→④南へ避難を試みる群衆により、大パニックが発生

→⑤物流は止まり、パニック状態は長期間に及ぶ

リスクマネージメントは常に最悪のシナリオを想定しなければなりません。②の段階で避難を始めたのでは、被曝リスクと避難パニックリスクを回避することはできません。原発事故は、いつ①or②の状況になってもおかしくない危機的様相を呈していました。私は、インターネットやテレビでの情報収集をさらに徹底し、また、原発の状況を知りえる可能性のある人に連絡をしていました。知り合いの国会議員・区会議員などに連絡を取るも、彼らも全く状況を把握していませんでした。私は、テレビでの管首相、枝野官房長官保安院・安全委員会のスポークスマンの会見時の表情から、危機の真相を予測するほかないと感じていました。枝野官房長官の会見時の表情は回を重ねるごとに自信のなさを表出していきました。政府トップにも原子力の専門家にも、誰にもわかっていないのだと確信したとき、言い知れぬ恐怖感におそわれました。【つづく】

2011年3月12日(土)を振り返る

 テレビに目をやると、画面の片隅に大津波警報を示す赤い輪郭で太平洋側沿岸の全域を縁取られた日本地図、海岸付近からの避難を呼びかけるキャスターの姿、そして初めて聞く緊急地震速報の不気味な警報音がひっきりなしに繰り返されていた。地震津波の被害を読み上げる中で、津波による犠牲者が数名、数十名と報じられていたが、車が走行している道路を軽々とのり越え、農地や住宅地を凄まじい勢いで飲み込んでいくヘリコプターからの映像を目にした瞬間、犠牲者数が万の単位に上るであろうと直観したことを今でも鮮明に思い出します。そして、女川、福島第一・二、東海、東通などの原子力発電所が次々と緊急停止し、その後、福島第一原発の半径3キロ以内の住民に非難を呼びかける枝野官房長官の会見、女川原発での火災等々、原発でも危機的な状況が報道の内容以上に進行しつつあることを感じ取っていました。ひっきりなしに大地を揺るがす東北太平洋側からの余震に、船酔いのような感覚に見舞われながらも、震度3や4の揺れに五感が麻痺されてきたころ、長野県で震度6強地震を伝える報道に、恐怖感を覚えました。日本全土が揺さぶられている、微妙なバランスを保っていた地殻のクラッシュが始まったのではないかと。
 3月12日、まばらに動き出した鉄道で、何とか下北沢まで戻ってきた長女を車で迎えに行った。下北沢の街では、マクドナルドが通常のメニューは物流の停滞で提供することができていなかったが、パン屋さんなども営業していた。パン屋さんで娘たちが好きそうなパンを買って帰宅した。早朝、福島第一原発の非難範囲が3キロから10キロ圏内に拡大され、原子力発電所正門付近で通常の数倍の放射線量が観測されたとの報道があった。放射性物質が何重もの防護をすり抜け、我々が呼吸する空間に放出され始めたのです。原子炉圧力容器や格納容器の圧力が下がらず、ベントを行うとの報道、いよいよ放射性物質が漏れ出るのではなく、意図的に放出する段階まで危機は進行していました。妻と三人の娘に必要最小限の荷物をまとめておくようにと指示をしました。インターネットで福島第一原発から東京までの距離、風向き、スリーマイルやチェルノブイリでの事故内容と汚染状況等を片っ端から調べて、家族のリスクマネージメントの構築を開始しました。対象となるリスクは「被曝」、最重要ポイントは「避難のタイミング」と設定しました。避難決断の条件は、政府・東電・原子力保安院原子力安全委員会やマスコミの報道の裏側までを読み取る洞察力、私自身の情報収集と自己責任に裏打ちされた直観、家族の安全を最優先とすること等、ぶれない、流されない決断をすべきと心に誓いました。
 3月12日午後3時ごろ、福島第一原発1号機が爆発する映像が流れました。「炉心溶融メルトダウン)」という言葉が使われ始めました。枝野官房長官の会見は、何とかパニックを引き起こさないよう、注意深く言葉を選んで行われていました。しかしこれは事の真相を小さく見せようとすることでもあることを見逃してはならないのです。インターネットで風向きを1時間おきにチェックし、水素爆発ではなく放射性物質の大量拡散となる水蒸気爆発の可能性、大気中で観測されている放射性物質の種類、濃度など、調べるほどに状況が悪化していることに、決断の時期が近付いていることを感じていました。【つづく】

2011年3月11日(金)を振り返る

 3年ぶりの書き込みです。
 3年間、日々の出来事に対して発言することを控えてきました。3月11日の東日本大震災および原発事故に関しても語ることを回避しました。3月11日以前は、語ることのむなしさを深く感じていたから、しかし、3月11日後は、むなしさではなく、まさに当事者として行動することを優先してきたからでした。今でもはっきり思い出すのは、テレビ・ラジオを通しての原発事故に関する情報のいびつさでした。
 3月11日、自宅で妻と三女と届いたばかりのデスクを組み立てていた時、三女が「地震だよ」と、コップの水が揺れているのを見て静かに言いました。その後、揺れは49歳の私が初めて体験するレベルのものとなりました。自宅ビルは10年前に世界最小の制震オイルダンパーを装着しており、その効果を身をもって確認することとなりました。ダンパーが揺れを吸収し、ゆっくりとしたものとなっていることがはっきりわかりました。4・5階の自宅では、テレビや壁に立てかけてあった写真フレームも倒れることはありませんでしたが、ゆっくりとした大きな揺れは、かなり長く続きました。すぐに、次女が中学校からの帰宅時間に重なっていること、長女が大学の合宿で、神奈川の某大学の体育館にいることを頭の中で整理し、長女と次女の携帯に電話をしましたが、全くつながらず、妻と三女を連れて、大崎にある次女の中学校に車で向かいました。途中大きな余震があり、10階建の細長いマンションが互いにぶつかり合うほど揺れていることが目視ではっきりわかりました。これは尋常ならざる事態であることを落ち着いて再認識することと、これから何をなすべきかを頭の中で整理しながら車を走らせていました。中学校に着くと、生徒たちが校庭の真ん中に座っていましたが、次女は、すでに学校を出ていました。無事でいることを祈りつつ、線路沿いに車を走らせ、乗換駅の品川駅に向かおうとしましたが、国道15号に出ると、すでに渋滞の気配が感じられ、このまま品川に向かうと動きが取れなくなると判断し、一旦帰宅することとしました。帰宅し、自宅玄関に次女への伝言を張り紙してから再度線路沿いに次女を探そうと考えていました。帰宅すると、すでに次女は3人の友人と帰宅しており、本当にホッとしたこと、そして次女が品川駅の2階で地震に遭遇し、すぐに友人とタクシーに乗り帰宅、私たちがいないことを知ると、たぶん自分を迎えに行ったのだろうと考え、電話が繋がらないために、近くの小学校に行き、電話を借りて中学校に電話を入れ、自分が無事なこと、そして親が迎えに来たら自宅にいることを伝えてほしいと伝言したこと等の話を聞きました。なかなかしっかりした対応だと感心したことを思い出します。その後、公衆電話のある場所を思い出し、小銭を持って、公衆電話へと走り、長女と、心配をしてメールをくれた地方の知人に連絡を取りました。長女には津波が来る可能性があるので建物の3階以上にいるように伝えました。とりあえず、家族全員の無事を確認してから、やっとテレビの報道に目をやりました。【つづく】

謹賀新年

 「新年明けましておめでとうございます」とはいうものの、昨年後半からの世界的な経済後退は激震となって日本にも極めて厳しい影響を及ぼしています。
 『泰平の時にのんびりするのは常識ですが、「治ありて乱を忘れず」というのは、この常識を破ることであり、それは政治ばかりでなく、経済、その他日常生活のあらゆる面において必要な心がまえでないか』
 松下幸之助さんの言葉です。経営に対する考え方も時代の移り変わりに応じて変化するものではありますが、変わらない軸となる信念とも言うべきものはあるはずです。MBAに代表されるアメリカ型の経営学には、この変わらぬ軸・信念が希薄であると思われるのです。たくさんの経営指標を駆使して、優秀と言われる人材を多数抱え、行き着いたところがサブプライムローン問題、ビッグ3による公的資金投入のお願い、そして世界中を巻き添えにした恐慌ということでは大きな疑念を抱かざるを得ません。上場に株主本位、ROEROAに一株当たりの利益額にキャッシュフロー、どれも大切なのかもしれませんが、経営の信念と呼ぶほどのものではありません。
 トヨタは「カイゼン」と称して、ムリ・ムダ・ムラを乾いた雑巾を絞るがごとく最小化し、2008年3月期には1兆7000億円にも上る利益を達成しました。しかし、経済環境は一変し、2009年3月期は赤字に転落するそうです。そして、なりふりかまわず、先頭をきって非正規労働者を切り捨てはじめ、トヨタがやるならという事で、自動車産業はもとよりあらゆる産業が非正規社員を切り、今年は正社員にもレイオフの嵐は及ぶ事となるでしょう。いきなりホームレスとなった労働者たちの姿は連日テレビ画面を独占し、更に経済を押し沈める方向に作用しています。もし、トヨタが給料は下げるが雇用は守るという方針をとっていれば、他の大企業もこれほど簡単に雇用を犠牲にすることもなく、ひいては経済もこれほど急落する事はなかったでしょう。トヨタ非正規労働者のわずかな人件費を削減した引き換えに、致命傷とも言える販売台数の激減を自ら招き入れたのだと思うのです。
 トヨタの経営者は自らの世界戦略の好調ぶりに、乱あることを忘れていたのではないでしょうか。口を開けば、「100年に一度の大恐慌」、私の責任ではないと言うがのごとくに。「治ありて乱を忘れず」、平常時に、非常時もまたいずれ訪れ来る事を忘れるなということ、世界のトヨタが、こんなに簡単に労働者を切り捨てる以外の戦略を本当に持っていないのでしょうか。かなりさびしい気持で新年を迎えています。

P/L と BS

 P/LとBS?一体何のことと思われる方もいらっしゃると思いますが、これは、P/L=損益計算書(profit and loss statement) 、BS=貸借対照表(balance sheet)を意味します。経営者にとって、最も重要な計算書です。サブプライムローン問題が表面化してから、世界中でたくさんの企業が経営難に見舞われています。突然破綻してしまう企業も相当数に上ります。これらの企業は、直近の決算で黒字であった企業が少なくありません。1年間の収入から支出を差し引いて利益の額を算出するのが、P/L=損益計算書(profit and loss statement)です。つまり、破綻直前の決算でP/L上は、しっかり利益を計上していた企業が破綻しているのです。これはなぜなのでしょうか?そこでもう一つの大切な計算書、BS=貸借対照表(balance sheet)の登場です。BSはP/Lほど単純ではありません。バランスシートは、左側(借り方)に資産、右側(貸し方)に負債・資本が項目別に記載されています。左側の資産には、預金・受取手形・所有株式・土地・建物などの会社の財産の状況が示されています。そして、右側の負債・資本には、負債項目として、借入金・振り出し手形・発行社債など、そして資本項目として資本金・利益剰余金など、つまり右側は会社の資金の調達源泉が示されています。つまり、右側の資本・負債で調達した資金を使って、左側の資産を形成しているのです。資産=負債+資本ということです。
 企業の経営はP/Lだけ見ていては片手落ちなのです。たとえば、1年間で製品を10個製造して、原価が800万円/個、売価が1000万円/個で、5個しか売れなかったとします。8000万円の製造原価は支払い済みですが、P/L上は、売上5000万円、製造原価4000万円で、利益1000万円という事になるのです。立派に利益を計上していますが、実際には入金が5000万円、支出は8000万円で、3000万円の持ち出しであるにもかかわらずです。そこでBSを覗いてみましょう。BSの左側の借り方に、製品(売れ残り)4000万円という資産が計上されています。そして、右側の貸し方には、製造のために銀行からの借入金4000万円が記載されています。ここで、売れ残った製品は相変わらず売れ残り、サブプライムローン問題が表面化し信用収縮が起こり、銀行が4000万円の借入金の返済期限に、借り換えに応じてくれなかったとしたら・・・。上記の「製品」を「土地や分譲用のマンション」と読み替えれば、不動産会社がどれほど苦境に陥っているかが容易に想像できます。
 また、BSの左側の所有株式が1億円(買ったときの価格)あり、その取得のため右側の借入金が1億円使われていた場合、株価が半減してしまったのですから、実際の資産の額としては5000万円(時価評価額)で、右側には評価損マイナス5000万円という事になってしまいます。直近の決算で過去最高益を計上していたような銀行が、突然経営危機に陥るのは、P/Lによるものではなく、まさにBS、バランスシートによるものなのです。
 更に、BSの右側の負債・資本で、返済の不要な資本金や利益剰余金の割合を自己資本比率と言います。前出の株で5000万円の評価損を出してしまった企業の自己資本つまり資本金+利益剰余金が5000万円であれば、株価暴落で自己資本が0円、自己資本比率が0%となります。自己資本が3000万円の会社であれば、2000万円の債務超過、破綻状態に陥ってしまうのです。このように、P/L上は利益が出ていても、バランスシート・BSを詳細に見極めていくと、その企業の経営状況がわかるのです。逆を言えば、経営者たる者、利益の額に浮かれ、真に企業の状況を判断する事を怠ってはならないのです。経済状況が悪化すればするほど、バランスシートは毀損され安くなるのであり、景気がよければよいほど、その後襲ってくるバランスシート危機を察知した、バランスシート経営が必要になると思うのです。私事ですが、比金工務店は2年前に過去最高売上・過去最高益を計上しましたが、その時期から、売上を抑制し、よりバランスシートに重きを置いた経営にシフトしました。これが功を奏し、売上・利益は半減しましたが、自己資本比率は40%近くにまで向上し、この大不況の中でも、破綻や倒産のリスクからは程遠い安定した経営状態を保つ事ができています。