2011年3月12日(土)を振り返る

 テレビに目をやると、画面の片隅に大津波警報を示す赤い輪郭で太平洋側沿岸の全域を縁取られた日本地図、海岸付近からの避難を呼びかけるキャスターの姿、そして初めて聞く緊急地震速報の不気味な警報音がひっきりなしに繰り返されていた。地震津波の被害を読み上げる中で、津波による犠牲者が数名、数十名と報じられていたが、車が走行している道路を軽々とのり越え、農地や住宅地を凄まじい勢いで飲み込んでいくヘリコプターからの映像を目にした瞬間、犠牲者数が万の単位に上るであろうと直観したことを今でも鮮明に思い出します。そして、女川、福島第一・二、東海、東通などの原子力発電所が次々と緊急停止し、その後、福島第一原発の半径3キロ以内の住民に非難を呼びかける枝野官房長官の会見、女川原発での火災等々、原発でも危機的な状況が報道の内容以上に進行しつつあることを感じ取っていました。ひっきりなしに大地を揺るがす東北太平洋側からの余震に、船酔いのような感覚に見舞われながらも、震度3や4の揺れに五感が麻痺されてきたころ、長野県で震度6強地震を伝える報道に、恐怖感を覚えました。日本全土が揺さぶられている、微妙なバランスを保っていた地殻のクラッシュが始まったのではないかと。
 3月12日、まばらに動き出した鉄道で、何とか下北沢まで戻ってきた長女を車で迎えに行った。下北沢の街では、マクドナルドが通常のメニューは物流の停滞で提供することができていなかったが、パン屋さんなども営業していた。パン屋さんで娘たちが好きそうなパンを買って帰宅した。早朝、福島第一原発の非難範囲が3キロから10キロ圏内に拡大され、原子力発電所正門付近で通常の数倍の放射線量が観測されたとの報道があった。放射性物質が何重もの防護をすり抜け、我々が呼吸する空間に放出され始めたのです。原子炉圧力容器や格納容器の圧力が下がらず、ベントを行うとの報道、いよいよ放射性物質が漏れ出るのではなく、意図的に放出する段階まで危機は進行していました。妻と三人の娘に必要最小限の荷物をまとめておくようにと指示をしました。インターネットで福島第一原発から東京までの距離、風向き、スリーマイルやチェルノブイリでの事故内容と汚染状況等を片っ端から調べて、家族のリスクマネージメントの構築を開始しました。対象となるリスクは「被曝」、最重要ポイントは「避難のタイミング」と設定しました。避難決断の条件は、政府・東電・原子力保安院原子力安全委員会やマスコミの報道の裏側までを読み取る洞察力、私自身の情報収集と自己責任に裏打ちされた直観、家族の安全を最優先とすること等、ぶれない、流されない決断をすべきと心に誓いました。
 3月12日午後3時ごろ、福島第一原発1号機が爆発する映像が流れました。「炉心溶融メルトダウン)」という言葉が使われ始めました。枝野官房長官の会見は、何とかパニックを引き起こさないよう、注意深く言葉を選んで行われていました。しかしこれは事の真相を小さく見せようとすることでもあることを見逃してはならないのです。インターネットで風向きを1時間おきにチェックし、水素爆発ではなく放射性物質の大量拡散となる水蒸気爆発の可能性、大気中で観測されている放射性物質の種類、濃度など、調べるほどに状況が悪化していることに、決断の時期が近付いていることを感じていました。【つづく】