2011年3月13日(日)を振り返る

3月13日(日)、私は現在進行形の原発事故による最悪のシナリオを想定していました。
→①原発周辺の放射性物質濃度が上がり、作業員が近付けなくなる

→②冷却が不可能となり、1〜3号機の原子炉、1〜5号機使用済み燃料保管プールにおいて、次々にメルトダウンそして水蒸気爆発をおこす

→③北は北海道から、南は関西まで、大量の放射性物質が拡散し、国民の2/3が深刻な被曝

→④南へ避難を試みる群衆により、大パニックが発生

→⑤物流は止まり、パニック状態は長期間に及ぶ

リスクマネージメントは常に最悪のシナリオを想定しなければなりません。②の段階で避難を始めたのでは、被曝リスクと避難パニックリスクを回避することはできません。原発事故は、いつ①or②の状況になってもおかしくない危機的様相を呈していました。私は、インターネットやテレビでの情報収集をさらに徹底し、また、原発の状況を知りえる可能性のある人に連絡をしていました。知り合いの国会議員・区会議員などに連絡を取るも、彼らも全く状況を把握していませんでした。私は、テレビでの管首相、枝野官房長官保安院・安全委員会のスポークスマンの会見時の表情から、危機の真相を予測するほかないと感じていました。枝野官房長官の会見時の表情は回を重ねるごとに自信のなさを表出していきました。政府トップにも原子力の専門家にも、誰にもわかっていないのだと確信したとき、言い知れぬ恐怖感におそわれました。【つづく】