2011年3月11日(金)を振り返る

 3年ぶりの書き込みです。
 3年間、日々の出来事に対して発言することを控えてきました。3月11日の東日本大震災および原発事故に関しても語ることを回避しました。3月11日以前は、語ることのむなしさを深く感じていたから、しかし、3月11日後は、むなしさではなく、まさに当事者として行動することを優先してきたからでした。今でもはっきり思い出すのは、テレビ・ラジオを通しての原発事故に関する情報のいびつさでした。
 3月11日、自宅で妻と三女と届いたばかりのデスクを組み立てていた時、三女が「地震だよ」と、コップの水が揺れているのを見て静かに言いました。その後、揺れは49歳の私が初めて体験するレベルのものとなりました。自宅ビルは10年前に世界最小の制震オイルダンパーを装着しており、その効果を身をもって確認することとなりました。ダンパーが揺れを吸収し、ゆっくりとしたものとなっていることがはっきりわかりました。4・5階の自宅では、テレビや壁に立てかけてあった写真フレームも倒れることはありませんでしたが、ゆっくりとした大きな揺れは、かなり長く続きました。すぐに、次女が中学校からの帰宅時間に重なっていること、長女が大学の合宿で、神奈川の某大学の体育館にいることを頭の中で整理し、長女と次女の携帯に電話をしましたが、全くつながらず、妻と三女を連れて、大崎にある次女の中学校に車で向かいました。途中大きな余震があり、10階建の細長いマンションが互いにぶつかり合うほど揺れていることが目視ではっきりわかりました。これは尋常ならざる事態であることを落ち着いて再認識することと、これから何をなすべきかを頭の中で整理しながら車を走らせていました。中学校に着くと、生徒たちが校庭の真ん中に座っていましたが、次女は、すでに学校を出ていました。無事でいることを祈りつつ、線路沿いに車を走らせ、乗換駅の品川駅に向かおうとしましたが、国道15号に出ると、すでに渋滞の気配が感じられ、このまま品川に向かうと動きが取れなくなると判断し、一旦帰宅することとしました。帰宅し、自宅玄関に次女への伝言を張り紙してから再度線路沿いに次女を探そうと考えていました。帰宅すると、すでに次女は3人の友人と帰宅しており、本当にホッとしたこと、そして次女が品川駅の2階で地震に遭遇し、すぐに友人とタクシーに乗り帰宅、私たちがいないことを知ると、たぶん自分を迎えに行ったのだろうと考え、電話が繋がらないために、近くの小学校に行き、電話を借りて中学校に電話を入れ、自分が無事なこと、そして親が迎えに来たら自宅にいることを伝えてほしいと伝言したこと等の話を聞きました。なかなかしっかりした対応だと感心したことを思い出します。その後、公衆電話のある場所を思い出し、小銭を持って、公衆電話へと走り、長女と、心配をしてメールをくれた地方の知人に連絡を取りました。長女には津波が来る可能性があるので建物の3階以上にいるように伝えました。とりあえず、家族全員の無事を確認してから、やっとテレビの報道に目をやりました。【つづく】